女性主人公 犯罪を起こす 作品を紹介

妻たちの決断は

こちらもキャスティングという点で

OUTという、現代の日本社会における暗部をまざまざと描いた社会風刺にも似たサスペンス作品となっている。サスペンス、というよりは後半へ進むにつれてかなりグロテスクな展開もあれば、実際に誰かが殺されるという猟奇的な場面描写が見られるなど、過激な部分が多く見られるのも特徴だ。しかしこうした作調も相まり、日本社会が抱え込んでいる問題が世界基準で照らしあわせても他人事ではないと評価され、エドガー賞候補にノミネートされたという。アメリカのミステリー小説を讃える高名な文学賞で、今作品が初めて日本の純作品としてノミネートされるという快挙を成し遂げた。後に東野圭吾さんの『容疑者Xの献身』もノミネートされるものの、残念ながら受賞には至っていない。それだけ海外でも高く評価されたということだ。

そんな映像作品とだけあって注目も熱いわけですが、やはりこちらもキャスティングが見応えある顔ぶれとなっています。こちらも注目してみると面白いので、まずはそこから見てみよう。

映画とドラマのキャスティングについて

ドラマ 映画
香取雅子 田中美佐子 原田美枝子
我妻ヨシエ 渡辺えり子 倍賞美津子
山本弥生 原沙知絵 西田尚美
城之内邦子 高田聖子 室井滋
十文字彬 哀川翔 香川照之
佐竹光義 柄本明 間寛平

OUTも最初にテレビドラマで高い評価を受けた後に映画が制作された、という流れになっています。ドラマは1999年、映画は2002年と3年という時間を開けています、これだけ開いているのは比較されないようにという意図もどこかであったのかもしれません。

1999年にテレビドラマ化されたというのも納得できる、とてもではないがこちらの作品を今やろうとしても倫理的な問題が、と取り上げて問題に挙げる人が出てこなくもない。何かと煩く批評される世界になってしまった分、過激なドラマではありますがその分だけ面白みが含まれているのも事実だ。だいぶ昔、そう呼んでも差し支えない作品となっているので興味がある方はレンタルショップで見てみると良いでしょう。

ドラマを見た後に映画か、映画を見た後にドラマか、という順番ではなく、それぞれ独立した面白さがあると見るべきだ。いくら90年代最後だからといってもテレビドラマでは表現できないところがある、けれど映画ではかなりグロテスクな描写も赦されている反面があるので中々に描写がエグい。特に死体を解体する場面に至っては。強烈なシーンが連続するのが今作の特徴でもあるので、その点は注意してほしい。

内容について

キャスティングについてはここまでにして、内容について話をしていく。原作を基準にするとやはりドラマも映画も最終的な展開は違っている。原作通りに動いているといえるのはドラマですが、映画ではほとんど別ものの作品になっていると称している人が多く見られる。

ここでは映画の話題を中心に行っているので、原作とどう違うかを比較しながら考察していこう。

雅子たちについて

まずはじめに注目したいのは、雅子たち4人についてだ。彼女たちの日常はいわゆる閉ざされた世界で自分という個が埋もれて、先に期待を出来ない人たちという表現がしっくり来る。家庭崩壊している雅子、病気の姑と娘を養わなければならない雅子、お金で自分の不幸を更に上塗りしていく邦子、旦那からの暴力に耐えなくてはならない弥生と、不幸を絵に描いたような背景を持っている。必ずしも不幸とはいえない部分もあるのかもしれませんが、そんな4人が弥生の殺人をきっかけにして死体解体という作業に手を伸ばしてしまった。

結果的にいえば誰にもバレず、更に佐竹という偶然に似た囮を持って彼女たちの日常に潤いがもたらされる。旦那から解放された弥生は喜び、下りた保険金で雅子たちに謝礼を渡すなどする辺りに彼女が解放されたんだと取れるはずだ。けれど雅子をきっかけにして怪しく近づく十文字に死体解体をしろと脅迫まがいに要求されてしまう。

本来なら断るところですが、全員が窮屈な現状を脱却して新しい世界へ旅立つための資金を手に入れ自由になりたい、そう願ったことで犯罪に手を伸ばしていく。中でも雅子に至っては淡々と受け入れてやっている辺りに底知れぬ恐怖を覚えさせられます。

佐竹という存在

作中の中でも雅子たち並みに強烈な異質感を漂わせているのが、雅子たちにありもしない罪の濡れ衣を押し付けられた佐竹という男性だ。彼は以前にも自身が管理するシマで悪さをした女性を殺害するなどしていたが、過去に愛した女性には犯した後に性器へ刃物を突き刺すという猟奇性を垣間見させている。傍から見れば異常猟奇殺戮者と見えるが、彼からすればそれは甘美で、これ以上にない極上の快楽と称している。自身にとってこれ以上の愛情表現はないと言わんばかりだが、その影を次に雅子へと向けるのだ。

原作では雅子たちへの復讐として追い詰めていくわけですが、その一方で雅子を愛して殺したいと願うようになっていく。その一方で雅子も佐竹に惹かれていくというのだから、本質的に似ているところがあったのかもしれません。ただそうした描写をするのはさすがに倫理的な問題も絡んでかなりまずいこととなるので、映画ではそこまで忠実な再現はされませんでした。したらしたである意味名作として形継がれそうですが。

確実に毀れていく日常

死体解体、などと本来平凡な日常を過ごす人にしてみればありえない作業だ。けれど裏社会において表に出てはいけない人、または人体解剖に興味を持ったという世間の常識から見た異常者が行う所業、と言えるでしょう。雅子たちもその足を踏み外してしまうわけですが、一蓮托生とばかりに共犯になる辺りから既に世間の枠というものから外れているのが見て取れる。

衝動的に殺害してしまったことに恐怖して助けを求める弥生にすれば、雅子に相談したのが運の尽きだったといえるでしょう。DV夫から解放されたことを喜ぶ以前に、雅子が異常を肯定する人間などと予想できるはずもなく、ヨシエも邦子も巻き込まれてしまう。その結果、全員が全員罪を背負い、物語が進むに連れてそれぞれが悲惨な結末を迎える中で、1人だけ勝ち組と言える立場になったのが雅子というのが皮肉な話だ。

エンディングも匂わせて

OUTを分析してみると、平凡な主婦たちが犯罪に手を染めていくだけではないのが見て取れます。自分たちのもう揺らぐことのない固定された悲壮な現実を打開するためには、彼女たち自身が異常にならなければならなかったのでしょう。それが異常ではなく正常になるという意味合いへ変質し、やがて擦り切れて耐え切れなくなった人間から物語の外側へと追いだされてしまった。その中で唯一適合を見せたのが雅子という時点で、彼女は元々表の世に生きる人間とは思えない。

出来ることなら、原作を見た後にドラマと映画を見たほうが今作の面白さをより理解できるでしょう。